所在地・・・植柳上町

第9代の八代城代であった松井章之(てるゆき)が、明治6年(1873)に細川家の茶道役古市師に設計させ、松井家茶道方徳永吉澄(古市の高弟)が作庭した庭園です。
章之(てるゆき)は、盈之(みつゆき)に家督を譲りこの地に隠居していましたが、能楽を好み邸内の能舞台で稽古に励み全盛を見たといいます。
当時は、池のふちまで屋敷が建てられており、座敷から池を隔てて眺めた築山は、駿河湾から富士山を眺めた景観を模しています。
かつては球磨川から池の水を引いており、堤防近くの水路を廻って、座敷正面の岩のところで滝となり流れ落ちていたそうです。
また、栽柳園は西南の役では薩摩軍の本陣となり、その後明治41年(1908)には植柳小学校の校地となりました。また、昭和27年に球磨川の新堤防ができた際、堤防の桜は切られ、この敷地内の多くの樹木が移植された結果、庭園自体も小規模なものになっています。
名称・・・・・・・・・栽柳園(さいりゅうえん)
指定ランク・・・・市指定
種別・・・・・・・・・記念物・名勝
指定年月日・・・昭和45年8月10日
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