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八代海干拓遺跡(国指定)

最終更新日:


「八代海干拓遺跡」とは

 ⼋代海⼲拓遺跡は、江⼾時代後期に築かれた高島新地旧堤防跡(たかしましんちきゅうていぼうあと)、大鞘樋門群(おざやひもんぐん)、明治時代から昭和時代にかけて築かれた郡築樋門群(ぐんちくひもんぐん)の3つの⼲拓遺跡で構成されています。これらの遺跡は、⼋代海の⼲拓の歩みや新⽥開発の具体的な様⼦を⽰すとともに、⼲拓に特有の樋⾨や堤防の構造・⼯法の発達を知る上で重要な遺跡として評価されています。令和4(2022)年3月15日に「八代海干拓遺跡」として国指定史跡に指定されました。

 

「高島新地旧堤防跡」

所在地‥‥井揚町
 


 江⼾時代後期頃、肥後熊本藩は⽣産⼒向上のため、⼋代海沿岸各地で⼲拓を進めました。⾼島新地旧堤防跡は、熊本県内で現存する最古の⼲拓堤防で、文化13(1816)年の高島新地干拓の際に、⼋代城代・松井徴之(まついあきゆき)の指⽰により⾼⼦原村と松崎村が共同で築いた堤防と樋門の遺構です。農免道路(県道338号)沿いに所在し、全⻑約85m、幅約9.4mの範囲が保存されています。堤防跡は、粗割した⽯灰岩を使って、野面積(のづらづ)みで築かれています。 

 高島新地旧堤防


「大鞘樋門群」

所在地‥‥鏡町両出・千丁町古閑出

 

 


文政(ぶんせい)2(1819)年、熊本藩主・細川斉茲(ほそかわなりしげ)は、⼋代・宇⼟・下益城3郡の2,600町歩に及ぶ大規模な⼲拓の新地築造を計画しました。鹿子木量平(かのこぎりょうへい)はその計画に基づき、文化(ぶんか)2(1805)年の百町新地開(ひゃくちょうしんちびらき)、文政(ぶんせい)2(1819)年の四百町新地開(よんひゃくちょうしんちびらき)、文政(ぶんせい)4(1821)年の七百町新地開(ななひゃくちょうしんちびらき)を成功させていきました。

⼤鞘樋⾨群は、⿅⼦⽊量平と息⼦の謙之介(けんのすけ)よって、文化2(1819)年に四百町新地開の⼲拓に伴い作られた樋⾨です。元々、「殻樋(からひ)」、「二番樋(にばんひ)」、「江中樋(ごうちゅうひ)」、「新殻樋(しんからひ)」、「三番樋(さんばんひ)」という5基の樋⾨がありましたが、現存するのは「殻樋」、「二番樋」、「江中樋」の3基です。「殻樋」は5連の樋門、「⼆番樋」と「江中樋」は3連の樋⾨で、いずれも精密に加⼯した砂岩が使われています。

「殻樋」は平成23(2011)年の夏の⼤⾬で、「江中樋」は平成28(2016)年の熊本地震で被災したため、応急処置を⾏っています。


大鞘樋門群「殻樋(からひ)」

※平成23年大雨による被災前の状況

大鞘樋門群「二番樋」

大鞘樋門群「江中樋(ごうちゅうひ)」

※平成28年熊本地震による被災前の状況


 

 

「郡築樋門群」

所在地‥‥郡築二番町・三番町

 

















 明治32(1899)年、当時の八代郡が行った八代地方最大の干拓事業が「郡築新地」です。当時の⼋代郡⻑・古城弥次郎(こじょうやじろう)のもと、幾多の苦難を乗り越え、明治37(1904)年9⽉に潮⽌⼯事がなされました。

 「旧郡築新地甲号樋⾨(きゅうぐんちくしんちこうごうひもん)」は郡築⼲拓に伴い、明治33(1900)年から明治35(1902)年にかけて造られた樋⾨です。総延長約33m、幅約5.2m、⾼さ約6.1mの⽯造アーチ式10連樋⾨で、国内最⼤級の樋⾨です。アーチ部分には煉⽡を3重に積み上げ、樋⾨本体は切⽯で造られています。

 「郡築⼆番町樋⾨(ぐんちくにばんちょうひもん)」は、昭和11(1936)年に⾼潮で郡築堤防が決壊したため、昭和13(1938)年に堤防の決壊場所に新たに造られた樋⾨です。総延長約13m、幅約4.5m、高さ約5.6mの石造アーチ式3連樋門です。石造の多連アーチ樋門として八代平野に2箇所残るうちの一つであり、貴重なものです。



旧郡築新地甲号樋門

郡築二番町樋門

 

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