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妙見宮祭礼神幸行列関係資料(県指定・有形民俗)

最終更新日:
09 国指定9基の笠鉾.JPG

 妙見祭は、妙見町にある妙見宮(八代神社)の秋の大祭で、江戸時代から続く八代地方最大の祭礼行事です。11月23日に行われる神幸行列では、獅子舞や笠鉾、亀蛇、花奴、木馬、飾り馬など、江戸時代から受け継がれてきた伝統ある出し物が数多く参列し、絢爛豪華な時代絵巻として観るものを魅了します。
 妙見祭の出し物のうち、神輿1基、笠鉾9基が熊本県の重要民俗文化財に指定されています。

神輿
 神幸行列とは、神様を乗せた神輿が行列をなして地域をめぐること(神輿渡御)で、人々を災厄(はやり病や農作物の不作など)から守り、地域に平安をもたらすもので、人々は神様への願いと感謝を込めて、飾り立てた馬や出し物を奉納しました。その起源は、平安時代に京都で始まった祇園御霊会にさかのぼり、全国各地に広まりました。
 妙見祭の神幸行列は、相良氏時代は妙見中宮から桜馬場へ回っていたことが確認でき、江戸時代には、妙見下宮(現在の八代神社)から中宮の間で行われていましたが、大正11年、八代城下にある塩屋八幡宮を御旅所とするようになりました。
 神幸行列での神輿や祭器の運行は、妙見宮の氏子地区の人々が年番制で担当しています。氏子地区は、宮地町、妙見町、西宮町、古麓町、東町、上日置町、中片町、西片町、川田町西、古閑上町、古閑中町、古閑下町、田中町などで、そのたゆまぬ奉仕が妙見祭を支えてきました。
 現在、妙見祭で使用される神輿は、平成10年に新調されたもので、古い神輿は、寛永12年(1635)、細川三斎が寄進したもので、有形の民俗文化財として、平成15年に笠鉾9基とともに熊本県の重要民俗文化財に指定されています。

神輿.JPG 神輿 天井画.jpg
神輿 細川三斎直筆と伝えられる天井画

笠鉾
 笠鉾は、八代城下の町々から奉納されているもので、全部で9基あります。一つひとつデザインが異なり、商売繁盛や不老不死、子孫繁栄を意味するおめでたい飾りがつけられています。笠鉾が妙見祭に奉納されるようになったのは、天和・貞享(1681〜87)頃と考えられ、はじめは簡素な作りであったものが、20年ほどの間に豪華なものになっていったようです。
 祭りのときは、高さ4〜4.8mにもなる笠鉾ですが、普段は200個ほどの小さな部材に解体され、各町内に保管されています。平成4年から6年度にかけて市教育委員会が行った調査の結果、これらの部材の中に、江戸時代の年号や制作に携わった町の人々の名前が記されているものが数多く発見されました。
 宮之町から出される笠鉾「菊慈童」の部材を入れた箱に記された元文3年(1738)が現存するもっとも古い年号で、文化2年(1805)から文化6年(1809)頃の制作と見られる祭礼絵巻には、現在とほぼ同じ笠鉾が描かれており、このころにはすでに今の笠鉾に近いものが出来上がっていたことがわかります。

 これらの笠鉾は、毎年、妙見祭が行われる11月22日・23日直前の日曜日(または土曜日)、町ごとに集まって組み立てられます。組み立ての順序も江戸時代以来続いてきた大切な伝統です。

宮之町と笠鉾「菊慈童」
 「宮之町」という町名は、もと妙見宮(八代神社)の門前町の一部であったことに由来すると伝えられ、町内には妙見宮の分社がまつられています。
 宮之町は、妙見祭へ笠鉾「菊慈童」(9基のうち第1番)を出しています。初めは、一人で持つ傘型の出し物を出していましたが、元文3年(1738)、「菊慈童」の人形をのせた4人持ちの笠鉾を出すようになりました。妙見宮との縁が深いことから、宮之町の笠鉾は、神幸行列の中では他の笠鉾の先頭に立ち、天候が悪くても必ず妙見宮までお供する習わしです。
 「菊慈童」は、謡曲「菊慈童」に登場する少年で、仕えていた皇帝から賜ったありがたいお経の言葉を菊の葉に書いておいたところ、菊の葉から滴る露が不老不死の薬となって、700年経っても若々しいままであったという物語です。人々の不老不死への願いを表しています。
 
本町と笠鉾「本蝶蕪」 
 「本町」は、江戸時代八代城下町の中心となった町筋で、町の中央を東西(現在の本町アーケード上)に薩摩街道が通っていました。
 嘉永6年(1853)8月、将軍家に嫁ぐため、江戸に上った篤姫もこの道を通っていきました。また、街道沿いには、参勤交代途中の島津氏や幕府の役人が利用する宿泊施設「御客屋」がありました。
 本町は、妙見祭に笠鉾「本蝶蕪」(9基のうち第2番)を出しています。「本蝶蕪」は笠の上に、「本」の字、「蝶(町)」「蕪(株)」をのせており、本町の株があがる、つまり本町の商売繁盛を意味しています。今から240年ほど前の明和元年(1764)の記録によれば、この頃、すでに現在のような本・蝶・蕪の笠鉾が出されていました。
 「本蝶蕪」の装飾のひとつに、長崎青貝細工で作られた「伊達板」があります。文化7年(1810)に作られた豪華なもの(年号が判明しているものとしては国内最古)で、城下町・港として賑わった八代の繁栄と長崎との交流を物語っています。

二之町と笠鉾「蘇鉄」
 「二之町」という町名は、八代城下第二の町屋街であったことに由来するともいわれています。二之町に隣接する袋町の医王寺には、延宝3年(1675)、二之町の人々が妙見宮に奉納した石の仁王像が残っています(明治の神仏分離で医王寺に移されたもの)。
 二之町は、妙見祭へ笠鉾「蘇鉄」(9基のうち第3番)を出しています。「蘇鉄」は、枯れても焼けた釘で打てば蘇るといわれ、不老不死・起死回生の霊木です。また、葉の形が鳳凰の尾羽に似ているところから「鳳尾蕉」の別名があります。鳳凰は、優れた為政者が現れたとき姿を表すといわれ、家門の繁栄、太平の象徴です。明和元年(1764)の記録によれば、この頃、すでに現在のような蘇鉄の笠鉾が出されていました。 
 笠鉾を構成する部材のうち、欄間飾りの裏に寛政5年(1793)に、本町の塗師が塗り直したことが記されており、これが最も古い墨書です。

通町と笠鉾「西王母」 
 「通町」は、江戸時代「新町」と呼ばれていました。町名の由来は、八代城下建設時に本町、二之町に配しきれない新興の町衆に割り当てられた町屋街であったことによるといわれています。昭和40年に旧八代町に入る第一の大通りであることから通町となりました。町の中央を東西に薩摩街道が通り、東側に八代城下への出入りを守る松江口番所がありました。町内の光圓寺には、慶長19年(1614)細川忠興(三斎)が織田信長の33回忌に作らせた梵鐘が残っています。
 通町は、妙見祭へ笠鉾「西王母」(9基のうち第4番)を出しています。「西王母」は、謡曲「西王母」に登場する美しい仙女で、治世がよく行われていることを讃えて皇帝の前に現れ、3千年に1度しか実を結ばないという仙桃を捧げて舞うというおめでたい物語です。
笠鉾を構成する部材には、「延・享・元・年・甲・子」の各文字が記されており、組み立てのときの合印になっています。この年(延享元年・1744)がこの笠鉾の制作年代と考えられます。

紺屋町と笠鉾「猩々」 
 「紺屋町」は球磨川の支流前川右岸に位置し、その清流を利用して、糸や衣類の染め物の町として発達したことが町名の由来といわれています。町内の荘厳寺は、はじめ古麓城下に創建され、麦島城下に移された後、当地へ移ってきた古いお寺です。
 紺屋町は、妙見祭へ笠鉾「猩々」(9基のうち第5番)を出しています。猩々は、謡曲「猩々」に登場する仙獣で、孝行者の高風という青年に、どんなに汲んでもなくならない酒壺を与え、高風はこの酒を売って富を得たという物語です。紺屋町の商売繁盛と家門繁栄を祝ったものです。
 明和元年(1764)の記録によれば、この頃すでに、現在のような猩々の笠鉾が出されていました。
 笠鉾を構成する部材のうち、上屋根軒先を支える部材(腕木)に安永5年(1776)の墨書があり、これが年号がわかる最も古いものです。

中島町と笠鉾「蜜柑」 
 「中島町」は八代城下となる以前から栄えていた地域で、相良氏が八代を支配した16世紀に、客人をもてなす迎賓館として建てられた中島館があり、現在の笹掘公園は、相良氏が貿易船市来丸を造船した跡と伝えられています。また、江戸時代には貯木場として利用され、その名残として「木の場」「膾町」という地名が残っています。
 中島町は、妙見祭へ笠鉾「蜜柑」(9基のうち第6番)と「獅子舞」を出しています。「蜜柑」は、江戸時代に幕府献上品となっていた八代の特産物「八代(高田)蜜柑」を表現しています。また、田道間守(たじまもり)が垂仁天皇の勅を受けて常世の国から持ち帰ったという「非時香木実(ときじくのかくのこのみ)」という仙薬であるともいいます。
 笠の内側の部材に、宝暦3年(1753)の墨書があり、「手斧立」と書かれていることから、この年が制作年代と考えられます。

徳淵町と笠鉾「恵比須」
 徳淵町は、中世、名和氏や相良氏が八代を支配した時代、国内はもとより、中国や琉球との貿易港として栄えたところで、弘治元年(1555)には、八代から16艘もの渡唐船が出ていたという記録があります。「徳淵」の地名は、徳すなわち金銀財宝を運び込む港の意味といわれています。
 元和8年(1622)、徳淵村・松江村の間に八代城が築かれると、その城下町となり、前川を渡る薩摩街道の渡し口や札の辻がおかれ、八代城下の中心的港として繁栄しました。現在、本町のロイヤルホテル前にある春日神社は、寛永20年(1643)細川三斎が八代城の守りとして、徳淵町から移したもので、現在も町内に残る春日神社は、古春日と呼ばれています。
 徳淵町と淵原町(徳淵村の一部)は、妙見祭に笠鉾「恵比須」(9基のうち第7番)を出しています。「恵比須」は、七福神の一人であり、おめでたい鯛に乗り、海を渡るその姿は、港として繁栄した徳淵の歴史を物語っています。「恵比須」の鯛が乗る波は、明和元年(1764)に当時14才の「大工三平次」が制作したもので、この年、笠鉾の飾りが「桐に鳳凰」から「恵比須」に作り変えられました。
 
平河原町と笠鉾「松」
 平河原町は、江戸時代、前川岸に荷揚げ場があり、荷物の出入りを管理する川口番所が置かれていました。また、呉服類の問屋や小売商が多かった町で、平河原町の北には呉服町がありました。
 平河原町は、笠鉾「松」(9基のうち第8番)を出しています。「松」は、謡曲「高砂」に老夫婦の姿で現れる高砂・住吉の「相生の松」を表しているとされ、夫婦ともに白髪が生えるまで長く仲むつまじく暮らせることを願っています。「高砂」は、住吉明神が現れて泰平の世をたたえるおめでたい曲です。
 明和元年(1764)の記録によれば、この頃の当町の笠鉾は「孔雀」で、1800年代に「松」に変わったようです。笠鉾を構成する部材のうち、上層部の「六歌仙」裏に記された文化2年(1805)の墨書が最も古いものです。

塩屋町と笠鉾「迦陵頻伽(かりょうびんが)」 
 「塩屋町」は、八代城の西に位置した町です。町名の由来は、元和5年(1619)、加藤正方の八代城建設の折、干拓により塩浜などに開発した新地であったことによります。製塩業に従事する人々によって発達し、海浜の産業に従事する人が多かったといわれています。当町には、寛永9年(1632)、細川三斎が宇佐八幡宮より勧請した塩屋八幡宮があり、11月23日の妙見祭では、神幸行列は塩屋八幡宮から出発します。
 塩屋町は、妙見祭に笠鉾「迦陵頻伽」(9基のうち第9番)を出しています。迦陵頻伽は、上半身は人、下半身は鳥の姿をした想像上の生物で、極楽浄土に住むとされ、たいへん美しい声で鳴き、「妙音鳥(みょうおんちょう)」とも呼ばれます。謡曲「羽衣」にも登場し、この世が極楽世界さながらであることを祝ったものです。
 明和元年(1764)の記録によれば、この頃すでに、現在のような迦陵頻伽の笠鉾が出されていました。
 笠鉾の部材を納める箱に、天明6年(1786)の墨書があり、これが年号がわかる最も古いものです。

菊慈童 本蝶蕪 蘇鉄
菊慈童 本蝶蕪 蘇鉄
西王母 猩々 蜜柑
西王母 猩々 蜜柑
恵比須 松 迦陵頻伽
恵比須 迦陵頻伽



名称・・・・・・・・・妙見宮祭礼神幸行列関係資料(みょうけんぐうさいれいしんこうぎょうれつかんけいしりょう)
指定ランク・・・・県指定重要民俗文化財
種別・・・・・・・・・民俗文化財
指定年月日・・・平成15年4月16日


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