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古麓城跡(国指定史跡「八代城跡群 古麓城跡 麦島城跡 八代城跡」及び市指定史跡)

最終更新日:

 

所在地・・・古麓町上り山
古麓城跡遠景.JPG

1.古麓城の歴史
 古麓町上り山一帯は、南北朝時代から戦国時代末まで250年余りの間、山城(やまじろ)がありました。この山城は現在、古麓城跡と呼ばれていますが、当時は八代城と呼ばれていました。
 建武(けんむ)元年(1334年)に名和義高(なわよしたか)が八代荘(やつしろしょう)の地頭(じとう)に任じられ、翌年には代官(だいかん)として一族の内河義真(うちかわよしざね)が下向(げこう)し、南北朝の争乱(そうらん)に備えて築城したと伝えられます。正平(しょうへい)3年(1348年)には、「八代城(現在の古麓城跡。以下、古麓城)」が文献に初めて登場します。
 古麓城を中心に八代を治めていた名和氏と、人吉・球磨(くま)地方を拠点とする相良氏は、交通の要衝(ようしょう)である八代地域をめぐって争っていました。
 室町時代の文明(ぶんめい)16 年(1484年) に相良為続(さがらためつぐ)は古麓城を落城させて名和氏を追放しましたが、明応(めいおう)8年(1499年)に肥後国守護職(しゅごしょく)の菊池能運(きくちよしゆき【よしかず】)の援助によって名和顕忠(あきただ)が八代に復帰しました。しかし、永正(えいしょう)元年(1504年) に相良長毎(ながつね)が古麓城に入城して八代を領地とし、天文3年(1534年)に相良長唯(ながただ)によって城の大規模な整備と城下町の整備が行われました。
 天正(てんしょう)9年(1581年) には響野原(ひびきのはら)で相良義陽(よしひ)が戦死して島津(しまづ)氏の領地となり、翌10 年に島津氏は肥後に侵攻し、島津義弘(よしひろ)を守護代(しゅごだい)に据(す)え、古麓城には平田光宗が常駐することとなりました。
 しかし、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州攻めによって、島津氏は八代から退却し、薩摩に戻りました。九州攻めの最中の4月19日には豊臣秀吉が古麓城に入城し4日間滞在し、キリスト教の宣教師(せんきょうし)ルイス・フロイスの面会も受けました。九州攻めの後、肥後は佐々成政(さっさなりまさ)の領地となりましたが、佐々は国衆一揆(くにしゅういっき)の責を負わされて切腹しました。その後、八代は小西行長(こにしゆきなが)の領地となりましたが、行長は城を球磨川対岸の麦島に移したため、古麓城は廃城(はいじょう)となりました。
 古麓城は、約250年もの長い間、八代地域の中心を担っていました。

2.古麓城の構造
 古麓城は古麓一帯の山頂を数段に削平(さくへい)した山城で、複数の城で構成されています。各城は曲輪(くるわ)の近くに堀切(ほりきり)と竪堀(たてぼり)を設け、山の麓に水堀(みずぼり)を巡らせ、城下町を取り囲むように水無川(みずなしがわ)を利用して総構(そうがま)えが設けられていたと考えられています。
 ■名和氏時代・・・①〜⑤の5城で構成。
    ①飯盛城(いいもりじょう)※主城
    ②丸山城(まるやまじょう)
    ③鞍掛城(くらかけじょう)
    ④勝尾城(かちおじょう)
    ⑤八丁嶽城(はっちょうだけじょう)
 ■相良氏時代・・・文亀4年(1504年)に相良長毎が入城。主城は鷹峰城。

  ※曲輪‥郭ともいいます。山頂や尾根筋に広がる人為的な削平地。
  ※堀切‥尾根筋の延びる方向に対して直交する溝状の遺構。
  ※竪堀‥尾根筋から麓に向かって延びる溝状の遺構で、等高線と直交。



指定・・・・・・・国指定史跡「八代城跡群 古麓城跡 麦島城跡 八代城跡」及び市指定史跡「古麓城跡」
種別・・・・・・・記念物・城跡
指定年月日・・・・国指定:平成26年3月18日 市指定:昭和40年4月12日


◆関連史跡
 麦島城跡(むぎしまじょうあと)
 八代城跡(やつしろじょうあと)

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