文化財さんぽ23〜妙見祭ゆかりの文化財⑦〜
井桜屋勘七の墓〜妙見宮祭礼の獅子舞楽創始者〜
(いざくらやかんしちのはか)
◆八代市出町8−8 光徳寺境内
◆享保19年(1734)年記
妙見祭の獅子舞は、八代城下の商人井桜屋勘七(いざくらやかんしち)が創始したものと伝えられ、勘七の子儀右衛門(ぎうえもん)が明和(めいわ)3年【1766】に八代町奉行(やつしろまちぶぎょう)に提出した「妙見宮御祭礼獅子楽器之事(みょうけんぐうごさいれいししがっきのこと)」によれば、勘七は長崎諏訪(すわ)神社祭礼【長崎くんち】で見た「羅漢獅子(らかんじし)」に魅了され、これを妙見祭に奉納したいと数年思い続け、21歳の秋長崎に渡り、太鼓や「ちゃんめら」を習い覚え、衣装や舞い方を工夫して、元禄4年【1691】初めて妙見祭に奉納したと記されています。勘七の没年は享保(きょうほう)19年【1734】11月17日で、21歳から元禄4年まで数年かかったとすれば、60代半ばで亡くなったことになります。
異国情緒豊かな長崎文化の影響が色濃い獅子舞は、港町として栄えた八代の歴史を物語っており、現在は中島町獅子舞保存会がその伝統を守り、厳しい練習の成果を披露しています。

井桜屋勘七の墓(光徳寺境内)