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麦島城跡(国指定)

最終更新日:

 

所在地・・・古城町
麦島城跡.JPG 都市計画道路麦島線建設に伴う調査で見つかった小天守石垣(西側から)※現在は埋め戻され、保存されています
 麦島城は、天正(てんしょう)16年(1588年)、宇土・益城・八代・天草の領主となったキリシタン大名・小西行長(こにしゆきなが)が、名和(なわ)氏・相良(さがら)氏時代の古麓城(ふるふもとじょう)を廃して、重臣の小西行重(こにしゆきしげ・末郷【すえさと】)に命じて築かせた城です。当時麦島は中世以来の貿易港の徳渕(とくぶち)の津と球磨川(くまがわ)に挟まれた水運に適した場所でした。
 慶長(けいちょう)5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、八代は加藤清正(かとうきよまさ)の治めるところとなり、麦島城も加藤氏の支城(しじょう)となりました。支城となった後、麦島城の改修が行なわれました。また、慶長8年には麦島城下でキリスト教徒の殉教(じゅんきょう)がありました。元和(げんな)元年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると「一国一城令」が出されましたが、肥後国の加藤領は例外として熊本城と麦島城の二城が残されました。麦島城は同5年3月の地震で倒壊しましたが、幕府の許可を得て翌6年の2月に現在の松江城町で城の再建が始まり、同8年に現在の八代城(松江城)が完成しました。
 麦島城は、中世の山城から近世の平城へ城の造りや立地が移り変わる時期に築かれた、九州で最も古い近世城郭(きんせいじょうかく)のひとつです。
 平成8年(1996年)〜15年(2003年)にかけて行われた発掘調査では、麦島城跡の規模(東西約400m、南北約350m、本丸は約130m四方)が確認された他、小天守(こてんしゅ)跡では豊臣秀吉の許可が必要であった金箔鯱瓦(きんぱくしゃちがわら)や、小西行長が文禄(ぶんろく)の役の時に釜山(ぷさん)から持ち帰った「隆慶(りゅうけい)二年(中国・朝鮮半島の年号、西暦1568年)」の年号がある滴水瓦(てきすいがわら)が見つかりました。また、二ノ丸跡では平櫓(ひらやぐら)と見られる建物が倒壊した状態で見つかりました。
 現在、シルバーワークプラザ八代古城館では、発掘された石垣の一部を見ることができます。
画像 017.jpg    画像 027.jpg
 「萬暦十二年」(西暦1584年)      「隆慶二年」(西暦1568年)
  銘の滴水瓦       銘の滴水瓦


名称・・・・・・・麦島城跡(むぎしまじょうあと)
指定ランク・・・・国指定史跡
種別・・・・・・・記念物・城跡
指定年月日・・・・平成26年3月18日


◆関連史跡
 古麓城跡(ふるふもとじょうあと)
 八代城跡(やつしろじょうあと)

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