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大鞘樋門群(県指定)

最終更新日:

 

所在地・・・八代市鏡町両出・同千丁町古閑出
大鞘樋門群.JPG
 大鞘樋門群は、鏡町両出の字大鞘に所在し、千丁町を境に流れる大鞘川に接しています。
 鏡町は元禄年間から数多くの新地干拓によって、その面積を増やし発展してきた地区であり、当樋門群は四百町新地開における北西部に造られました。
 当初は五つの樋門で構成されましたが、このうち二つは新橋架け替えと、埋没により、現在は「殻樋」「二番樋」「江中樋」と呼ばれる三つの樋門が残ります。
 大鞘樋門の名称は、樋門の周りを囲む鞘石(石垣)が非常に堅固だったことから名付けられたと伝えられており、その周辺もまた大鞘と呼ばれるようになりました。
 文政2年(1819)9月24日に四百町新地の潮留めは完成しました。
 耕地337町9反が新たに上納地に加えられました。
 このとき築造された樋門が大鞘樋門と呼ばれ、これまでの「御国流」よりもすこぶる堅牢で鞘石垣に巨石を使い、備前流といわれる樋門の革新的技法を取り入れています。
 水門は五ヶ所で、北から殻樋5枚戸、二番樋3枚戸、江中樋4枚戸(現3枚戸)、新殻樋7枚戸(昭和42年3月新橋に架け替えました)、三番樋3枚戸(埋没)です。
 なお、当初一番井樋3枚戸が文政廻しの北側に計画されていましたが、塩浜塩田設置のために施工されませんでした。
 現存する殻樋は備前流と呼ばれている築造技法であり、二番樋、江中樋は合法と呼ばれる構築法になっています。
 備前流は、備前(現在の岡山県)の石工高野貞七の設計により、これまでより堅固に作られ、一部に巨石を使い、工事の監督であった広松輔周が無理に巨石を使わせたので、「広松のもがい井樋」ともいわれています。
 引き続いて文政4年(1821)に七百町新地が干拓されましたが、この後の樋門はすべて備前流、合法により築造されています。
 七百町新地干拓の折、ここの樋門堤防に長い小屋を作り、天草からの出稼ぎ労働者を収容しました。
 誰が言うとなく、「名所名所と大鞘が名所、大鞘名所にゃ水がない」という唄がうたわれ出し、新地干拓の潟担い労働唄として郷土民謡大鞘名所の発祥地となりました。
 昭和46年には、「大鞘名所発祥之地」の顕彰碑が、旧鏡町と旧千丁町の合同でこの樋門横に建立されています。

大鞘節記念碑.JPG大鞘節記念碑
 大鞘節は、干拓事業に従事した人々が歌ったのが残ったものです。歌詞は8番まであります。歌詞の内容は、飲み水がないこと、仕事のきつさ、作業のしかた、「お菊」と「だいばどん」との恋などを表しています。


名称・・・・・・・・・大鞘樋門群(おざやひもんぐん)
指定ランク・・・・県指定史跡
種別・・・・・・・・・記念物・遺跡
指定年月日・・・平成17年6月8日
制作年・時代・・1819(文政2)年・江戸時代後期


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