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八代妙見祭の神幸行事とは?

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神馬 宮地小笠鉾並び.JPG

妙見宮(八代神社)の由緒

 妙見祭は、八代市妙見町にある妙見宮の秋の大祭です。妙見宮は、明治以降「八代神社」と呼ばれ、この地域で最も大きな神社として人々の崇敬を集めてきました。
 その歴史は古く、天武天皇白鳳9年(680)に、八千把村竹原津(現在の八代市立第二中学校に隣接する竹原神社の辺りと考えられています)に鎮座したのが始まりと伝えられています。
 その後、延暦14年(795)に横嶽(三室山)の山頂に上宮が創建され、永暦元年(1160)には上宮の麓に中宮、文治2年(1186)に現在の八代神社の場所に下宮が創建されました。

妙見祭のはじまり

 妙見宮の南に位置する山岳部には、14世紀以降、名和氏が築いた山城・古麓城(当時の八代城)があり、この一帯が八代の政治・経済・文化の中心地でした。妙見宮の周辺には多くの寺院が建ち並び、商工業者が門前町・城下町を形成し、海外との交易も行われ、おおいに繁栄していたと考えられています。
 相良氏が八代を治めた16世紀には、すでに妙見下宮から中宮へ神輿の神幸、舞楽や流鏑馬などの祭礼行事が行われ、多くの見物人を集めていたようです。

妙見祭の移り変わり

 天正9年(1581)古麓城主相良義陽が響ケ原の戦いに破れ、八代は島津氏の支配下に置かれました。天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州平定によって、島津氏は退き、八代を含む肥後南部は小西行長に任されました。行長は、水運の便のよい球磨川河口に新しい城(麦島城)を築き、古麓城下の人々も新しい城下へ移り住んでいきました。また、秀吉の検地政策によって、土地の所有権が領主に一元化され、妙見宮は社領を失って荒廃し、祭礼も途絶えてしまったようです。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、加藤清正が肥後国熊本藩主となりました。元和元年(1615)、江戸幕府は一国一城令を出し、熊本藩でも佐敷・南関・内牧城が廃止されましたが、水陸の交通の要衝にあった麦島城は存続が許され、さらに、元和5年(1619)の大地震によって崩壊した後も、幕府は再建を許可しました。新しい城は、中世以来の貿易港であった徳淵津に面した松江の地に建てられ、これが、現在、市中心部に本丸跡を残す八代城(松江城)です。
 藩主加藤忠広(清正の息子)の命を受けて、八代城の建設にあたった加藤正方は、城が完成した元和8年(1622)、妙見宮の社殿も再建しています。
 寛永9年(1632)、加藤氏は改易され、豊前国小倉藩主であった細川忠利が熊本藩主となり、八代城には忠利の父忠興(三斎)が入りました。妙見宮に参拝した三斎は、細川家の家紋(「九曜」と「二引両」)が、妙見宮の神紋と同じであることを「不思議の因縁」と感じ入り、祭礼の復興に力を入れました。寛永12年(1635)には、神輿や祭礼道具、装束などを寄進し、神輿の天井には、自ら龍の絵を描いたと伝えられています。寛永17年(1640)には、社領百石を寄付し、以降、歴代の藩主がこれを継続しました。
 三斎の没後、八代城は細川家筆頭家老の松井氏(三万石)にゆだねられ、祭礼は細川氏の名代として松井氏がとり行うことになり、引き続き、妙見宮や祭礼の整備が続けられました。

八代の繁栄を伝える妙見祭

 八代城の周辺に形成された城下町「八代町」は、熊本町・川尻町・高瀬町・高橋町とともに「五か町」と呼ばれ、近隣の物資が集まり、長崎や上方への積出港として賑わいました。町の中を薩摩街道が通り、参勤交代の島津氏や幕府の役人が宿泊する「御客屋」(いわゆる本陣)や高札場(お触れを掲示する場所)などもありました。
 町人文化が花開いた元禄の頃(17世紀の終わり頃)、八代町から笠鉾や獅子舞、亀蛇など、趣向を凝らし、贅を尽くした出し物が奉納されるようになり、次第に豪華になっていきました。町の中には、かつて古麓城下から移ってきた人々も多く、妙見宮への崇敬は格別のものがありました。細川・松井両氏は、地域の結束を高めるため、祭礼を盛り立てることに心を配りました。
 19世紀初め頃、松井家のお抱え絵師が描いた祭礼絵巻によって、さまざまな階層の人々が一体となって参加する盛大な祭りの様子を知ることができます。
 明治維新以降、行列から姿を消したものもありましたが、現在では「ふるさと創生事業」などにより出し物の復元や修復等が行われ、往時の豪華な行列が再現されています。
 長年にわたる貴重な伝統文化の保存と継承が評価され、八代妙見祭は、九州南部を代表する祭礼行事として、平成23年3月9日付で国重要無形民俗文化財に指定されました。

妙見神の由来

 妙見神は、北極星と北斗七星を神格化したもので、神道では「天御中主神」「国常立尊」と称され、仏教とも結びつき「妙見菩薩」と称されます。北極星は天の中心にあって動かず、その周囲を星がめぐることから、天を支配する星として、また、北斗七星は一昼夜でその周囲12方向を指すことから、時を定め寿命の長短をつかさどるものとして信仰されています。
 江戸時代の記録によれば、妙見神は、中国明州(寧波)から亀蛇の背に乗って海を渡って来た、あるいは百済国聖明王の第三皇子琳聖太子であるとの説が伝えられています。いずれも海を渡ってきた神(渡来神)であり、海を通じて交易が盛んであった八代の歴史が垣間見えます。
 亀蛇は、北の方角を守護する霊獣「玄武」が原型と考えられ、亀に蛇が巻きついた姿をしています。妙見神の仏神像は、亀蛇の形をした台座にのって表されます。
 八代妙見祭の亀蛇は、江戸時代、八代出町の人々が、祭神渡来伝承をもとに周辺の雨乞いなどの造形を妙見祭に取り入れた可能性が考えられます。

八代妙見祭の神幸行事
妙見宮祭礼神幸行列関係資料
詳細は、八代妙見祭のホームページをご覧ください。
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