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八代城跡(国指定)

最終更新日:

 

所在地・・・松江城町
八代城跡 本丸入口.jpg

1. 八代城と八代宮の歴史
 元和元年(1615年)に一国一城令が出され、肥後国は熊本城と麦島城の一国二城体制が特別に認められていました。しかし、同5年の大地震によって、麦島城は崩壊しました。熊本藩主の加藤忠広(かとうただひろ)は幕府の許可を得て、城代(じょうだい)の加藤正方(かとうまさかた)に命じて徳渕(とくぶち)の津(つ)北側に城を再建し、同8年(1622年)に竣工(しゅんこう)しました。これが、現在の八代城で、明治維新まで肥後国の一国二城体制が続くこととなりました。 寛永(かんえい)9年(1632年)、加藤氏が改易(かいえき)されると、豊前(ぶぜん)小倉藩主の細川忠利(ほそかわただとし)が熊本藩主となり、忠利の父・細川忠興(ほそかわただおき=三斎【さんさい】)と四男立孝(たつたか)が八代城に入城しました。忠興は八代城の整備を行い、北の丸の隠居所(いんきょじょ)には名木臥龍梅(がりょうばい)を植え、茶庭(ちゃてい)を設けました。正保(しょうほう)2年(1645年)閏(うるう)5月に立孝は若くして没し、忠興も同年12月に没してしまいました。藩主細川光尚(みつなお)は、八代城を細川家の筆頭家老でかつ将軍直臣(じきしん)の身分も持つ松井興長(まついおきなが)に預けました。これ以後、二代寄之(よりゆき)・三代直之(なおゆき)と代々松井氏が八代城を治め、八代の発展に尽くしました。
 明治3年(1870年)に八代城は廃城となり、同13年に八代町民の願いが叶い、南北朝時代の後醍醐(ごだいご)天皇の皇子懐良(かねよし【かねなが】)親王顕彰(けんしょう)のために本丸に八代宮を設置することとなり、同年官幣中社(かんぺいちゅうしゃ)に列せられることとなりました。同16年に社殿(しゃでん)が落成し、南側石垣部分を開いて参道を設け、翌17年4月に神霊鎮座(しんれいちんざ)の大祭が執行されました。同19年1月には良成(りょうぜい)親王が配祀(はいし)され、現在に至っています。例祭は8月3日です。境内(けいだい)には本殿(ほんでん)を中心として、拝殿(はいでん)や直会殿(なおらいでん)等が設けられています。
 八代城は、八代市の中心的な歴史公園として親しまれています。    

2. 八代城本丸の構造
 本丸の北西隅に外観(がいかん)5層6階(地階部分含む)の大天守(おおてんしゅ)があり、渡り廊下を通して2層2階(地階部分含む)の小天守(こてんしゅ)とつながっていました。
 大天守は、寛文(かんぶん)12年(1672年)、落雷によって消失し、その後再建されませんでした。大天守石垣の高さは約12m、本丸石垣の高さは約8mです。
 本丸の東側には表舛形門(おもてますがたもん)を設け、高麗門(こうらいもん)と頬当御門(ほほあてごもん)が置かれていました。また、北の丸に至る部分には裏舛形門(うらますがたもん)を設け、廊下橋門(ろうかばしもん)と埋御門(うずみごもん)が置かれていました。石垣の上には月見櫓(つきみやぐら)、宝形櫓(ほうぎょうやぐら)、磨櫓(みがきやぐら)や三階櫓(さんがいやぐら)、舞台櫓(ぶたいやぐら)が、本丸中央には大書院(だいしょいん)が設けられていました。現在、相撲場(すもうじょう)となっている箇所には、かつて能舞台(のうぶたい)が設けられていました。
 本丸内には枯山水(かれさんすい)の庭園が設けられており、現在もその一部を見ることができます。また、発掘調査で見つかった八代城時代の井戸が保存されています。


名称・・・・・・・・八代城跡(やつしろじょうあと)
指定ランク・・・国指定史跡
種別・・・・・・・・記念物(史跡)
指定年月日・・・平成26年3月18日


◆関連史跡
 麦島城跡(むぎしまじょうあと)
 古麓城跡(ふるふもとじょうあと)

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