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八代のお城?八代城は3つあった!?

最終更新日:
八代城の歴史
 建武(けんむ)元年(1334年)、後醍醐天皇の恩賞として八代荘の地頭職(じとうしき)を賜った名和義高(なわよしたか)は、一族の内河義真(うちかわよしざね)を八代に遣わし、山城(やまじろ)である「古麓城(最初の八代城)」を築きました。古麓城は、南北朝時代には九州南朝方の最後の拠点となりました。
 天正(てんしょう)16年(1588年)、宇土・益城・八代・天草を領した小西行長(こにしゆきなが)は古麓城を廃し、小西行重(こにしゆきしげ)に命じて、球磨川(くまがわ)河口に平城(ひらじろ)である「麦島城(二番目の八代城)」を築かせました。麦島は中世以来の貿易港であった徳淵の津(とくぶちのつ)の南に位置し、球磨川北岸に面した場所で、水運や貿易に適した場所でした。
 江戸時代になり、幕府より一国一城令が発布されましたが、肥後熊本藩は熊本城と八代城の二城を置くことが特別に許されました。しかし、元和5年(1619年)、麦島城は地震によって崩壊してしまいました。そこで、藩主加藤忠広(かとうただひろ)は幕府の許可を得て、八代城代加藤正方(まさかた)に命じて「松江城(現在の八代城)」を築かせました。
 寛永(かんえい)9年(1632年)、加藤氏が改易(かいえき)になると、細川忠利(ほそかわただとし)が肥後熊本藩主になり、父親の細川忠興(ほそかわただおき=三斎【さんさい】)が八代城に入城しました。
 正保(しょうほう)2年(1645年)、八代城主の細川三斎が亡くなり、細川家筆頭家老の松井興長(まついおきなが)が八代城に入城しました。以後八代は明治3年(1870年)までの2百余年にわたって、 松井氏が治めることになりました。


 ☆もっと詳しく知りたい方は・・・

  古麓城跡(ふるふもとじょうあと)
  麦島城跡(むぎしまじょうあと)
  八代城跡(やつしろじょうあと)

古麓城跡遠景.JPG 麦島城跡.JPG DSCF4648.jpg
古麓城跡 麦島城跡 八代城跡
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